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アンガージュマンとオプティミスム

私は一日に少しでも文章を書こうと誓ったばかりなのに、
忙しいという理由でさっそくすっぽかしている。
おそえらく、今の私にはさほど書くことがないのであろう。

「書くことがなくなった時にようやくモノは書き始めることができる。」
そんな大それた言葉をいつかは平然と吐いてみたいものだが、
今日はやや気負って吐いてみよう。


「よい文章とは何だろうか」と私はよく考える。
答え方は色々あるだろうが、よい文章の条件はアンガージュマンにあると答えたい。
それはいわゆる政治参加的意味合いを含むアンガージュマンではない。
私がここでアンガージュマンと使う時の、その意味とは、自分をトータルに引き受けるということである。
底の浅い文章というのは、そしてそういう文章は非常に書きやすいのだが、
自分をトータルに引き受けていない文章のことである。

(このような私の言説が極めて精神主義的で、
何ら具体的な物を持っていない。定義が非常に曖昧で、
文学的である、という非難は身を持って受け止める。
そして、それに対する私の答えはまだない。)

私は何度か、本気で「自分は死ぬんじゃないのか」と思い悩んだことがある。
その時、目の前は真っ暗になって、正直サルトルもなにもかもどうでもいいものに思えた。
残された時間で私は何したいのだろうと考えると、そのどれもがどうでもいいものであった。
ただ……そう、恥ずかしがらずに言えば、一人の女性の隣にいれればよいと思った。

この経験は、少なからず私に衝撃を与えた。
あらゆるものを捨てて、文学に哲学に走っていたはずだったのに、
いざ死ぬ段になれば、それは私にとって本質的な者ではないように思えたのだから。

私は、もう本を読みたいとは思わなかった。

アンガージュマンは、死を見つめながら、そして死を伴って文章を書くことである。
死と文章が等価値となるような文章を書くこと。
自分の全存在と等価であるような文章をそこに叩きだすこと。
これは、なんらミスティックな言い方にはなっていないと思う。

私は、文学を哲学を信頼しなかった。

私はよくオプティミスムを称揚する。私の称揚するところのオプティミスムとは、
それが完全に打ちのめされて、それがもう存在しえない時に存在するオプティミスムを称揚している。
すなわち、私が称揚する所のオプティミスムは一度冥界をくぐらなければならない。
その後にやってくる、訳の分らぬオプティミスム……もう少し言えば、
記述不可能なオプティミスムである「オプティミスム」を称揚する。

 『若きヴェルテルの悩み』は、ゲーテがもう死ぬしかないと、
文学は何の役にも立たないと、絶望した時に書いた文章だと言う。
ゲーテが、「ゲーテの悩み」から「ヴェルテルの悩み」に変貌させることのできた「力」、
すなわち『若きヴェルテルの悩み』を書いた力を、この場合、私はオプティミスムと呼ぶ。
『若きヴェルテルの悩み』はオプティミスムの産物ではなく、ゲーテのオプティミスムそのものである。
ゲーテは自分の全てを、すなわち絶望そのものを引き受けた。
その先には死しか存在しえない。
だが、生は存在した。それはゲーテによって証明された。

すなわちこれが私の思う一つのアンガージュマンの姿である。

ある対話

 私は友人の運転する車に乗っている。
「てかさー、恋愛って、契約だよなー」と友人が言ってくる。
「え、なんで?」
「だってさ、恋愛関係になったら浮気しちゃいけないとか、飲み会も制限、会わなきゃいけないとか色々あるやん。あ、このコンビニ寄っていい?」
「いいよ」
 夜のコンビニは淋しげな光を放つ。闇深い海の灯台だ。彼はガムを噛みながら戻ってくる。
「さっきの話だけどさ」と私。「恋愛は契約不可能性の地平にある契約だよ。」
「なんだよ、それ」
「つまりね、浮気をしようが色んな『契約』を破ろうが、まだその底に愛があるのであれば…」と私は長広舌。「……聞いてる?」
「ううん、聞いてなかった。どうでもいいことだろうな、と思って」
「ご名答だよ」
「ここでいい?」
「うん、ありがとう。またね。」

議論とそれからの逸脱

ニーチェは哲学著作を執筆する時は、なるたけ身の回りに本を置かなかったと言う。
彼にとって、本当に集中を要する仕事に、本は害毒であったのだろう。
(この文章は当然別だが)私が例えば論文を書くときは、常に本を脇に数十冊置いて、
それでも資料が足りないと頭を悩ませる。
それはそれで正しい在り方だとは思うのであるが。

テーマは「無駄について」から多少引き継いでいる。

よい論文とは何か。
「よい論文とは過去から長く続いている議論の内容を理解して、その上で自分の意見を述べてある論文である。」
というのは、かなり一般的な「よい論文」基準ではないのだろうか。
そもそも過去から長く続いている議論自体を理解することでさえ難しいことだから、
例えば卒論程度では過去から長く続いている議論を小綺麗に整理するだけでも立派なものであろう。

私は「立派」と表現したが、まさになぜそれが「立派」であると思われるのか、
もしくは「立派」であるのか、それについては多少の疑念を持っておいた方が良いと思う。

一言で言ってしまえば、それが「立派」になるのは、学者の世界での「礼儀」を知ることであり、
「交換」の規則を知ることであるからである。別の言葉で言えば、挨拶の仕方をすることである。
彼らは財産を持った、有徳なる人々なのである。帽子をとって会釈を交わし、互いの教養を認めあう。

私の記述の仕方があまりにアイロニックであると不愉快に感じる人もあるかもしれない。
「では、お前はどのような立場をとるのだ?」と言われるだろう。
ここで、「私はこうである!」と言いきってしまうと、これはまた行動が狭まってしまうので
言いたくないのが本音である。「アンガージュマンはどうした!」とおっしゃる方もいるだろう。
正直な所、アンガージュマンを心から手放しで賛同することはまだ出来ない。
アンガージュマンは私にとって「問い」であることに留まる。

「交換」の原理に留まるだけでは、正しくない。いや、実はそれこそが「正しい」のではあるが、
記述不可能な「正しさ」へは辿りつかない。交換の正しさとは、仲間内の正しさである。

・・・
交換から外れた人間とは誰か……? サルトルが『嘔吐』で描くロカンタンの孤独には、
何よりも、ブーヴィルの街でエコノミックな交換の環から外れていたことが必要条件になる。

・・・

礼節とは、挨拶とは何か。
私は「どうでもいいや」と思って、文章を書いてもほとんど推敲しないため、
誤字脱字や、文法的に文章が誤っていることや、文章の流れの悪いことがしばしばある。
例えば、これを礼節に欠けると言う。礼節に欠けるものは交換の原理には乗らない。
太宰治が「孤高というやつは、たいていの場合、こっちからお付き合いオコトワリな、
いわば<孤低>である。」と言ったのは、そのような意味で理解されてよい。

弁証法的道徳で考えると、礼節とは必要不可欠である。
既存の社会に害を与えうるのは、「それ」が交換可能性を持っていなければならないから。
贋金は、交換可能である……。

ニーチェの書と、贋金。シミュラークル……。

議論と、議論からの逸脱。議論の外部。


・・・
マラルメの詩と礼節。
もしくはモリエール『人間嫌い』

・・・

無駄について

沈黙の中にただ死ぬ 呪われたこの老人どもの
怨恨を紛れさせて 疎懶を揺って寝入らせるため、
悔恨を覚えた神は、睡眠を作り給うた。

人間が更に加えて太陽の聖なる御子のを造った。

ボードレール『悪の華』「屑屋の酒」



私が今書いているのは無駄な文章だ。
書誌、翻訳、紹介文、説明書、……要は何かしらの対象に対して散文的な記述を行えば、
誰かの役にもたつだろうし、それは無駄とは言えない。あ、余談ながら学者が論文でたまに
詩的な言葉遣いすることあるけど、ああいうの見ると「うわぁ…」って気色悪くなる。
デリダの影響受けて日本でも奇妙な詩情が流行ってた時代の論文の多くは悪臭ただよう。
と言いつつ、実は私はそういう表現が大好きなので苦しいのだが。
たぶん詩的表現を論文に書いている学者たちも他人のそれが気色悪く感じてるんじゃないのかな。

さて無駄な文章について書こうとしたのに、無駄な回り道をしてしまったが、
そもそも無駄な文章について無駄な文章書こうとしているのに、更にその上に無駄な道などあるのだろうか?

私のここに書いている文章は、誰にとっても得にはならない文章である事を心がけてもいる。
学術的には間違ったこともおそらくしばしば口にするだろう。
ここで私が言っていたからと言って信用してはならない。というか、そんなやついたらアホだ。
読むことで誤った知識をつける人もあるかもしれないが、前もって「ごめんなさい」と言っておく。
もちろんわざとは間違えないし、指摘も大歓迎ではないけれども、歓迎します。

良識を抱く方々は、このブログに入られない方が良い。
それはよいことではない。つまり、bienではないということです。
すなわち、あなたの財産=善になることではない。
ここにあるのは、「廃物の山のような堆積」である。
「がらくた置き場」の所以である。

「無駄ならば何故書くのか?」と言われる。
だが、私は誇りをもって言いたい。
「無駄であるからこそ書くのだ」

人は無駄なことをあえてしない。
無駄なことだとは思いつつも、ついついやってしまうことはあるだろうが、
無駄だと分かっていてあえてやることは少ない。
そうであろう、なぜならばそれは無意味なことであるからだ。

思えば、歴史上、無駄な文章ばかりが残っている。
文学しかり、哲学しかり、……
古来当時の人にとって有用であったものは悉く紛失している。

「無駄な文章を書くと言うことは何を意味しているのだろうか?」とそろそろ問うてもいいだろう。
無駄な文章を書くことは無駄ではなさそうである。危うく私は「無駄」という言葉をレトリカルに用いて、
「私は誰よりも下らぬ人間です」と神の前で誓うことで、自分を誰よりも崇高な人間に演じるエセ聖者の
やり口を使っていたことを反省せねばなるまい。
「無駄な文章」こそ偉大な文章である、とつい書こうとしてしまっていた。
残念ながら、そのような偉大な無駄な文章にもならない文章であることは認めなければならない。

・・・
無駄な文章と歴史性。弁証法的倫理。
倫理という言葉をあまりに使うと、自分の行動が制限されてしまう気がする。
倫理を考えるのは嫌いではないが、あまりに倫理に縛られると道学者先生になってしまう。
しかし、幸か不幸か、道学者先生になるだけの人格もない。

・・・




集中力について

集中力低下がやばい。
ブログを書こうと文字を打っている今現在も、集中力を著しく欠いている状態だ。
泥酔して右も左も分からない人間が、「やあ、家になんか帰れますって…」とふらふらで言ってる姿、
あなたも見たことあるでしょう。

私の今の状態は、まさにそれ。
文章を書ける集中力持っていないのに、無理矢理書いている。
足元ふらついて、こけそうになるのに、体勢を整える。
そのような状況にある時、果たして、泥酔者が、私が、悪いのか?
そんなわけあるまい。目下の所の原因は、酒であり、私の場合は禁煙であろう。
(酒を飲んだのは、禁煙をしているのは「誰」なのかという問いは保留しよう)
このように、今私は自分ではどうしようもできない状況である。
これだけ集中力が低下していると、気分も沈んでくる。

集中力の向上は意識的にはなしえない。
クラシック音楽聞くと勉強の集中力が上がるとか、覚醒剤飲めば長い間集中できるとか、
コーヒーが眠気覚ましになるだとか、そういった様々なことがらは結局の所、
集中力というものは自分で完全にコントロールできるものではないという証拠の品々である。

集中力の向上を意識的になしえないのは、まさに集中力それ自体が意識であるからだ。
……なんて書くと、現象学者から何言われるか分からなくて怖いが。
いや、でも意識的に集中っていうのは出来ないよね。意識的に眠ることが出来ないのと同様に。
私たちに出来るのは、集中しうる環境をつくること、もしくは眠れる環境をつくることであり、
そのような環境を整えた結果については知り得ない仕組みになっている。

アランは『幸福論』の中で、躁鬱病患者に対して医者に以下のように言わせている。
「あなたの気分が沈んでいるのは、血液一立方センチメートル中の血球数の減少のせいに過ぎない」
もし私の憂鬱が勝手に浮かび上がってくる過去の様々な断片に過ぎず、
また集中できないのも私のせいでないのであれば、
私は少し気が楽になる。

これは精神を可視化し、物質化してしまう考えではない。
むしろその逆で、「精神」や「気分」を客観化してもなお残っている
意志の力を私はナイーブな仕方で信じているのだ。
プロフィール

緑雨

Author:緑雨
無職男性(22)

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