fc2ブログ

読書感想文など

 シュペルヴィエル『海の上の少女』は鋼鉄の哀しみとでも形容しましょうか、非常に幻想的な小説集でした。ブッツァーティと云い、カフカと云い、ブランショの一部小説と云い、私はそういうものに弱いです。

 *

 野崎歓『異邦の香り──ネルヴァル「東方紀行」論』は、表題の通り、ネルヴァルの長大な旅行記についての書物ですが、単なる文学研究書と言うよりは、この本自体が「異邦の香り」の刺激をくれる書物でした。ネルヴァルは東方体験から西洋に批判の眼差しを得るのみならず、差異を差異として楽しみ、民衆の雑踏、市井という迷宮の中へと自らを巻き込んでいきます。ネルヴァルの旅行記は、著者も指摘するように、オリエンタリズムから外れた所にあります。サン=テグジュペリは「人間の帝国は心の内側にある」と云いますが、ネルヴァルは、その外-内を縦横無尽に楽しんでいるように見えました。

 *

 サルトル、ガヴィ、ヴィクトール『反逆は正しいⅠⅡ』は、昔に一度読んだことがあったのですが、B=H・レヴィの眼で悲しく読んだ記憶が残っていました。かなり久しぶりに再読したのですが、多少の悲しさはやはり感じました。自らが「知的スター」であることを、そしてそのある種の滑稽さ、哀しみを十分に実感していることに由るのでしょうか。それはさておき、この本は、72年から74年の間に行われたサルトルのひとまとまりの対談です。アクチュアルな政治的問題に触れながら、自由・疎外・実践・道徳・愛・友情など様々な問題について思考しています。サルトルの政治行動の結果的な是非はひとまず措くとして、意外と得る所が多かったです。サルトル自身はこの一連の対話を「自由についての討論」と呼びたいと言っていますが、むしろ私が通奏低音で感じ取ったのは、「友情」とは何か、という問いでした。サルトルは、自己犠牲の精神を批判します。「犠牲愛というやつは、党について感じうるもっともぞっとしたものだ(Ⅰ220)」「一生ぼくは犠牲精神というものをたたき続けてきた(Ⅰ222)」本当の革命家たちは「自分を犠牲にするのではない。彼らはある種の生を得ようと努めている(Ⅰ228)」のです。そして友情とは「じつに大事なことである。(Ⅰ225)」というのも、「ぼくのなすことが報われている──であるから[その行為が]犠牲にはならない。一緒に活動している人々は友人なのだから(Ⅰ224)」またサルトルの道徳への洞察も私は感動した。「道徳の体系は上部構造だ。けれども生きた道徳性というのは生産のレヴェルにある(Ⅰ141)」生きた道徳性とは、流動体である。ところで余談ながら、マオ派の非合法性を賞賛するサルトルを見ながら感じた事。デモは一般的に警察に守られて行われるものだと認識しているのだけれど、「合法的なデモ」ってなんだろうと私は考えさせられた。

 *

 田川建三『宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉』は面白かったのですが、著者の毒があまりに強すぎたせいでしょうか(よく言えばポレミックな文体と言うのであろうか)、あまり気持ちの良い読書体験ではありませんでした。この本で、もっとも私が面白かったのは、近代合理主義の否定としての宗教というのは逆にそれを肯定する力になるのだという論旨です。すなわち、宗教をそのような存在として担ぎ出すこと自体が「近代合理主義」的考え方だというのです。著者は、「宗教学」の発生からその変遷を素描します。そこから得られる答えとは、宗教学とはあらゆる宗教にある抽象的・普遍的な「宗教的なもの」を取り出す営為であるけれども、そうした営為は、心臓を有機体を動かす物として位置付けるのではなく、心臓のみを取り出すような考察に陥ってしまうでしょう。すなわちこのような発想は、そのまま近代科学の発想であると著者は言うのです。第二章では、共同訳の「懇切丁寧な『翻訳』」にイチャモンをつけますが、翻訳というものの難しさを改めて教えてくれる一面もあるにはあるのですが、(1)共同訳は現代では別にスタンダードではないこと(2)完膚無きまでに叩きのめすが、そこまでの必要性を感じないことの二点が読んでいて、多少苦痛でした。第三章では、遠藤周作『イエスの生涯』を論じます。著者は、遠藤の表記の間違いや専門用語、歴史誤認、聖書誤読を強く否定しますが、たしかに専門的な学者からのそうした指摘は貴重であると思う一方で、遠藤周作自体を「センチメンタルな「負け犬」の心情(215)」と言ってしまうのは、やや言い過ぎではないかと思います。正直、この種の無用な「言い過ぎ」が多いのが少し苦痛でした。次は『イエスという男』を読んでみようと思います。

 *

 藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』読む。全篇面白かった。「じじぬき」「ミノタウロスの皿」「一千年後の再会」がとくに面白かったです。エスプリの利いた短編もヒリリと辛くて好きですが、人間を相対化する巨大な視点の後の、それでも残る人間への信頼を描く傾向の短編も感動的です。そういえば、「ドラえもん」にはたくさん忘れられない話があるのですが、その中であまり有名ではないけれども好きな短編がある。「てんとう虫コミック第6巻」にある「こいのぼり」と言う短編。一見「普通」のようが、よくよく見ると割り切れないものがたくさん残る怪作だと思う。ラストシーンも秀逸。

 *

 小説や漫画の感想をツイッターで書く時、どこまで筋を書いていいのかっていうのは難しい問題である。それらについてもう少し踏み込んで書こうと思うのならやはりブログか。(というのもツイッターだと知りたくなかった筋を心ならず見てしまう危険がより高いためだ。)
 エンタメの場合、その多くは物語が重要要素になる。ときに物語の面白さは、謎を提示し、その謎を宙づりにしたまま、読者に物語全体という「永遠」の視点を与えず、宙づりの不安定な「現在」におしとどめるところから発生する。筋を書いてしまっては、本来、その不安定な「現在」を楽しむものであるのに、永遠の視点を得てしまう。興が殺がれるのは当然である。ネットスラングでネタバレを「犯人はヤス」と言うこともあるが、そうした宙づりsuspenseの無効化を、サスペンスによって表現するのは象徴的だ。だけれども、ネタバレが完全に最初からないかと言うとそうではない。例えば、文庫本は裏表紙や表表紙にそれがどのような本であるのか大まかな紹介が付されている事がある。多少の「ネタバレ」は読もうとする者にとってむしろ必要である。(そういえば、「題名」は作品の回帰する場所であり、往々にして一番簡易な要約であることもあるが、そこを通過して作品世界に入ることが私たちにとって多いと思うのだが、「題名」の効果を突き詰めるのも面白そう。デリダも『境域』でやってたりしますが…)

 *

 『イエスという男』を読みつつ何度も想起するのはジュネである。

 *

「愛を知る人というのは、取ることと与えることとが一つであるような人間、取ることによって与え、与えることによって取るような人間なのであろう。」
「如何なる場合にも、愛を知る人は、各瞬間、自分が何のために生きているかを知っている人である──この何かが実現されることがなくても。」

 ジンメル『愛の断想・日々の断想』より
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

緑雨

Author:緑雨
無職男性(22)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR