文体について(1)
『ミリンダ王の問い』で、ミリンダ王は尊者ナーガセーナに「人格的個体をなぜあなたは存在しないと考えるのか」と問う。ナーガセーナはこのように答える。「物質的なものや、感受作用、表象作用、識別作用、もしくはそれらの合体したものが人格的個体なのではない」と。ミリンダ王は「ではナーガセーナはいないのか?」と言う。ナーガセーナは答える。「では、あなたがここにくるまで乗ってきた車は何であるか。轅でも軸でも輪でも車体でもなく、それらの合体したものでもない。だがそれらの外に車があるわけでもない。では、あなたの乗ってきた車はないのか」「いや、そうではない」とミリンダ王は答える。「それら車の構成要素の存在する時に、車という名称が生まれるのだ」「しかり!」とナーガセーナは答える。「私の名もそのように構成要素が存在する時に名称が生まれるのである。だが、そこに人格的個体とは存在しない」これと同じように、文体もまた、文章の集合体によって「文体」という名称があるものの、文体という実体があるわけではない。文体は存在しない。より正しく言えば、文体とは無である。言いかえれば、それは作者の意識である。文体を検討するということは、すなわち作者の意識を検討することにもなる。私たちは存在を欲望しても、ついに存在論のサイクルから逃れることは出来ない。そうした存在は「消化」と同じように、自己と同一化するだけで、自己発展する契機を掴めない。だが、無を検討すると、私たちはそのような同一性から逃れることができる。欲望することが対象を否定し、形態において破壊することであるならば、無とは最初から何も構成されていないから、非我なる存在を欲望することとは全く別の契機が訪れる。文体を検討するとは、相手の意識を(ひとまず)承認することから始まる。というのも、承認しなければ、そもそも文章を読み進めることはできない。言い換えると、私の意識とは異なる意識を承認することである。文章を読み、文体を検討するとは、まず自らの意識の敗北を認めることである。
Twitter @ryoku28の発言より(2011年02月28日) ※一部表現を改変
「文体とは人間そのものである。」 ビュフォン
私が文体と読んだものとは、なぜここにこの言葉を置いて、このような文章を展開をさせるのかなどといった文章をまとめ上げる一つの力(puissance)の作用であった。その力自体は文章に働いているものであるのだが目に見えるものではなく、つまり可能態puissanceとしてしか現れないだろう。それゆえ、私は「文体は無である」と言った。
ときに、文体が文章の権力者(puissance)の謂いであるのならば、文章の権力者とは誰か? 今までの文章から、それはもちろん作者に帰されるべきもののように思われるが、ロラン・バルトの存在を知っている私たちは心から同意するにはいささかの戸惑いを覚えざるをえない。作者は死んだのだ、読者の誕生は作者の死によって償われなければならない、と。すなわち、私たちはどのようにして作者の「意図」を知ることができるのだろうかという問題に直面するのである。作品に「正しい」解釈など存在するのであろうか。そして、その「正しさ」を基礎づける権力者は存在するのか。
私は一つの解決方法を提案する。一つの存在の論証不可能性から創造者の死を宣言するのではなく、出来事の次元から見ること。もし私たちの目の前に作者が知らされぬままに一つの擬古文調の小説が現れるとしよう。大きく、昔の文章が発見されたか、現代人が擬古文調で書いただけかによって、例えば私はその文章を批評する際に、すなわち反省的に見た場合には意見が異なるだろう。だが、反省を伴わない場合には、作者が誰であるかは構わない。擬古文調の小説を読んで味わう快楽は等しいだろう。だが、その時にも、作品を読むのであれば、そこに一つの意図を見出さざるを得ない。おそらくそれがなければ作品は読むことも出来ないだろう。だが、それは(これはどのような作品でもそうだが──そしてそれが最後まで隠されている時、その最後の部分をオチと言う。サスペンスsuspense小説とは、この小説の中核にある意図の謎を宙づり状態にさせている小説のことである。……優れた小説は皆どこかしらサスペンス小説だと思う。──)宙づりの状態として顕れる。それを何かしらの環境世界で生まれ育ったがゆえの産物であると私たちは見なすのではなく、むしろ始めにおいては彼方からやって来るもの、予期しえないものとしてしか作品を見なし得ない。すなわち、存在の次元ではなく出来事の次元でしか作品は見ることができない。その時、作者の意図はどうでもよくて、そしてだからと言って作者が死んでいるわけでもなく、そこには非人称の形での「意識」が存在しているのである。
余談ながらサルトル『家の馬鹿息子』は前進的-遡行的方法で記述されている。すなわち、フローベールの書簡や伝記、時代状況などと言ったあらゆる痕跡を分析した後(遡行的方法)、そこで得られた素材を再構成して歴史=話(histoire)を作る(前進的方法)のである。それによって、いかにして「家の馬鹿息子」であるフローベールが傑作『ボヴァリー夫人』を書き得たかを論証する……はずの書物であったとしか言えないのは、サルトル健康上の理由で、全4巻で完結のはずが3巻半ばまでしか書かれなかったからである(と言い条、この試みは果たして成功する希のあるものであったかそもそも疑わしいが)。このサルトルの試みは、バディウの言葉で言えば存在と出来事の橋渡しをしようとする「徒労」とでも言いたくなるような作業である。(余談への余談ながら、今年中に『家の馬鹿息子』を読了したいものだ……)サルトルは、『家の馬鹿息子』への序文で次のように自分の企図を説明している。すなわち「今日、一個の人間について何を知りうるか」である。問いは、これであった。「文体は人間そのものである」とは冒頭でも引用したビュフォンの言葉だが、まさに『家の馬鹿息子』の最終部たる第四巻が文体研究に充てられるはずであったことは極めて示唆的であるように私には思われるのだが。──いずれにせよ、サルトルのフローベール研究は、あらゆる意味で、いささか滑稽なバベルの塔であったと私は思っている。
誰しも文章を書くのは状況の内においてであるし、また文章を書く前には、何かしらの文章に触れていなければならない。素材も道具も、またその一般的用法も、永遠なるものとして天上界に固定されている訳ではなく、今ここの状況の産物であり、そのような所与の存在を引き受けたうえでしか文章を書けないだろうし、またそのような観点を抜かした文体考察はやはり片手落ちだと言えよう。だが、サルトルのある種の失敗を繰り返さないためにどうすればよいのか、私にはまだ明確には見えていない。
(次回がもしあれば、アラン「散文論」とベルクソンのエラン・ヴィタルから文体を考えたいな…って。)