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思うようにはいかないものだな

なぜ文章を書いていたのか、という問いを立てよう。

私が文章を書き始めたのは中学二年生の秋である。読書好きは小学5年から始まってた。
もう何度もこの話はしたので簡潔に述べるに留めるが、初めはひょんなことから江戸川乱歩を
読み始めた。今まで怪傑ゾロリやズッコケ三人組くらいが関の山の、普通の小学生である。
(私にとってそれが普通の小学生である)
骨折して外では遊べなかったんだね。

江戸川乱歩は、一日1~2冊という小学生にしてはかなり早いスピードでよみ進め、
図書館にあった江戸川乱歩少年文学全集(だったか?)は一か月少しで読み終えた。

その後にハマったのは歴史小説なのだが……、今はどうでもよい。

・・・
中学生になるまでは、「物語が終わる」ことの意味が分からなかった。
本を閉じる。その次は、どうなったのか、私はとても気になってた。
これはゲームだけれども、FF7を全クリしてEDが最後まで流れる。
画面が真っ黒になっているのに、私はまた始まるのではないかという気がして。
2,3時間ずっとプレイステーションをつけたままにして、画面を見守っていた。

いくら文章が好きでも、文章を書こうとは思わなかった。
というか、(これは今でもそうなのだが)作文は苦手の範疇に入る。

次に、転機が訪れたのは、それが中学二年の時の話なのだが、これは完全な偶然による。
太宰治『人間失格』を読んだのだ。
これは本当に偶然であることを強調せねばなるまい。
本屋や図書館に行っても、人は自分の好きな本以外はあまり目に入ってこないものだろう。
私はそれが人一倍激しかったと思う。
太宰治という名前は、教科書などで多少響きになじみはあったが、
到底手に取ろうと思うものではなかった。私には読みたいものがたくさんあったのだ。
司馬遼太郎、吉川英治、山岡宗八、池宮彰一郎、……。
というわけで、太宰治を手に取ったのは、一つの偶然であり、もっと言うのであれば、
私の昔からのへそ曲がりのせいであった。

太宰治『人間失格』は私を異様に興奮させた。
今までの読書は、言っても無害であった。というのも、それはちょっとした冒険だったのだ。
私はある時には探偵になり、ある時には戦国武将になり野を駆けた。
ただ、それだけである。TVでドラマを見るよりは、いささか鮮度に欠けているのが残念なくらいだった。

太宰治はそれまでの読書体験とは決定的に違った。
想像のうちで探検していたのは、自分の心であった。いや、これも少し表現的に問題があるのだが。
いわば逆転したのだ。今まで想像と現実は画然として区別されるべきものであった。
読書してる私と、読書の中で得られる想像上の私が逆転したような印象。
鏡を覗いていると、映った自分が意志を持ち始めて勝手に動き始めるような。
もう私でもないのに、それは私なんだ。

私が今に至るまで苦労しているのは、鏡のせいで二重になった「私」が、言葉だけのものじゃなくて、
本当に二重になってしまったのを、なんとか乗り越えようとするものであった。
もちろんこれは今の私からの考えであって、当時はそんなこと何も考えていない。
闘いの最中にいる間は、闘いにも気が付かないし、またその価値にさえ気が付かない。
気が付くのは、笑ってそれを話せるようになった時である。


あ、なぜ書くのか、っていうことを話題にするつもりが、思わず長くなったね。
もともとは、「創作の泉」とは何かを書こうとしたのでした。続きは、また気が向いた時にでも。
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