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パフォーマティヴな戯言

J.L.オースティンはその言語行為論における言語分析において、
「コンスタティヴ」と「パフォーマティヴ」という対立を採り入れた。

小難しく言っているだけで、何のことはなく、それは即ち「中身/振る舞い」の対立のことである。

いや、厳密には違っているかもしれない。というか、私は、オースティンを読んだことさえない。
全然胸をはって言えることではないのだが。だから、正直、専門の人には読んでほしくない。
だが、だからと言って私は厳密に学問的考証、文献的考証を経ていないことを喋ってはならない、とは思わない。
また、それを経ていないから常に価値のないものだとは思わない。
「知らないくせに、知ったかぶりかよ」と言う人もいる。「見苦しいことしてやがる」
そうじゃない。使えるものであれば、使ってもいいんじゃないのか、使える範囲で。
学者としての自負心から、使えるまで「溜める」「慎む」のは別にかまわないが、
あまりそうやって「溜めていく」思想は好きではない、というだけで。
(……もちろんこれは学術論文の話をしている訳ではない)

パフォーマティヴを否定しそうな人たちにとって刺激的なことを書いてみた。

・・・
「空気を読む」という言葉が近頃氾濫している。
これは、明確にパフォーマティヴの領域の出来事であろう。

「空気を読め」という無名的圧力に疲れた人たちの一部は、
「空気なんか読まなくてもよい」という方向に向いている。

私の考えはそれとは逆で、空気は読まなければならないものである。
空気を読まなければ、空気を意図的に撹乱させることも出来ないのだから。

(「空気を読まなければならない」という言葉は強すぎるかもしれない。
「空気を読む事が出来ない人」をどのように受け入れるか、つまり他者に対して、
時間的、空間的他者に対して、どのように対峙すればよいのか。
サルトルは1世紀後の視線を異様なまでに気にした。彼は、時間的に決して動く事が出来ない、
つまり時間的に「空気を読むこと」の不可能性を痛感した思想家だったと思う。
彼の後世からの評価の恐れという形での「空気読めない」ことへの痛みを、
私はこの余白に残しておくべきであろう。)

空気を読まずに、空気読まない行為をするのは無謀であり、
空気を読んで、空気読まない行為をするのは勇気である。

さて、私は空気を読んでこれを書いたのだろうか?
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