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 私は今まで嘘をついて生きてきた。嘘がいつか本当になることを信じていたのだろうか? 私には何も分からない。
 一言で言えば、嘘をつくことは復讐だった。行動原理もまた、復讐の原理となった。裏返しに生きてやったのである。好きなものを嫌いと言って、嫌いなものを好きと言う。この行動原理は見事な成功をおさめた。この原理のおかげで、私は私ではなくなった。誰でもあらぬものになった。今、この文章を書いている私は、書きたいから書いているのか、書きたくないから書いているのか、それさえも分からない。私が文章をあまり書かぬようになったのは、書くことが好きだったからだ。好きだからこそ、書かずにいた。この復讐の原理は、恐ろしい。何年も続けているうちに、私は本当に文章が好きだったのかどうかさえも分からなくなってくる。習慣は人間をつくる。書かない習慣をあえて作れば、その習慣に残酷にも人間は慣れるものである。私は煙草が大嫌いだったから、吸ってやった。私は今でも煙草を吸っている。好きだから吸っているのか、中毒だから吸っているのか、嫌いだから吸っているのか分からない。クラシック音楽も、大嫌いだった。だからたくさん聞いて好きになった。だが、「本当に」好きなのか?
 「本当に」とはどういう意味を持つのか、私には「本当に」分からない。私は仕草を一つめくれば、またもう一つの仕草があるし、その中にももう一つの仕草がある。たまねぎの皮を剥いて行ったら、最後には何も残らない。私の行動は、全てそのようなものである。読者は騙されてはいけない。私はすでに嘘をついているはずだからだ。今、一生懸命に、嘘を交えずに書こうとしているが、それさえも嘘が混じっているかもしれない。それほど、私は嘘の隣で寝そべっていた。嘘……、そもそも、私の一人称は「私」などではない。ここからして、私は嘘をついている。
 誰に嘘をついているのだろうか? 仕草をするのは、他人のためである。復讐も他者がなければ成り立たない。人は真実の意味で自分に嘘をつくことはできないはずだ。なぜなら、嘘は真実が分かった上で、真実ではない事を言うことだからだ。私が自分に嘘をつくためには、私は真実を知っていなければならない。真実を知っている者に嘘をついても、情報の優劣がそこにはやってきて、私は嘘を信じることが原理的に不可能なはずである。では、誰に対して私は嘘をつこうとしているのか? 嘘も復讐も他者のためのものである。
 ランボーは「私は一個の他者である」と言ったが、私の場合は、「私は私ではない」という公式を持つことができると思う。何か私に質問を投げかけたまえ。おそらく私はいかなる質問にもすらすらと答えて見せることができるだろう。なぜならば、私は、そうした意見も言うことができる、というレベルでしか答えを返さない。私の本心は明かさない。本心? そんなものなどあるのだろうか。私はついぞそれを知らない。

 私がこのように文章を記しているのが何のためであるかは全く分からない。逃げ出したくなるが、存在という重い鎖で私は身体に閉じ込められており、ささやかに、このように文章を記すことで、私はなんとかこの身体から「私」を文章に転移させようと、努力している。「私」を文章に吐くのである。……この文章の目的は、一人でも私と似た症状を持つ人に、安心感を与えるため、というものかもしれない。
 私は今、正真正銘の孤独状態にある。なぜ孤独なのか? 真実の「私」というものがないのであるから、私はそもそも「真実のコミュニケーション」を取り得ない。それゆえに、孤独なのである。直感で好きか嫌いかで分かるだろ、と人は言う。否、そのレベルで私は嘘をつくことを覚えている。たんに嘘だったのならば、嘘の嘘が本当じゃないのか? と人はまた言うかもしれない。否、嘘の嘘は必ずしも真実には辿りつかない。それは、鏡の奥底に入り込むことなのだ。
 私は私が分からない。逆説的になるが、分かっているのは、今はそれだけだ。私は本質的に楽園から追放された。ほとんどの人は、楽園から追放されるというのは心象的な事件である。なぜなら、本当の世界を生きているのだから。私は嘘の世界を生きていたから、本当に楽園から追放されてしまった。出口は今のところ見当たらない。だが、常に出口は作り出されるものであるに違いない。
 あと、自己省察をしつつ、初めの嘘について考えていたが、おそらく、私が嘘をつき始めた経緯には、作家の逆説があるのだと思う。つまり、「偉大な作家はみな絶望している」ということだ。私はたしかに「偉大な作家」に憧れた。いや、ずっとそれだけだった。作家ではない、偉大な作家になりたかったのだ。そのためには、私は絶望をしなければならなかった。ここに一つの無意味な義務があるのだ。善をなせば幸福であり、悪をなせば不幸になる。私は、悪を欲さねばならなかった。私は悪に支配されてしまったのだ。もし、これが原因であるのならば、私のこの病はもうしばらくの間は続いてしまうだろうと思う。……私は不幸なことがあれば、「これが作家の経験になるのだ」と心の片隅で思ってしまっていたのである。「作家」という「対象」を「主体」のうちに義務として埋め込むことで、私は最も原初的な疎外を自ら望んでしまったのだ。

 絶望は静かにやってくる。

 念のために言っておくと、抜け出すためのご親切なアドヴァイスはお断りである。それは、たぶん、本気でいらない。
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No title

本気で要らないといわれようが、俺は君の友達だから
書くのだ。
友よ、あまり気負わず肩の力を抜いてくれ。
絶望ではなく、常に全てを前向きに考えるのだ。
俺は全てを前向きにしか考えない。
ナルシストといわれようがそんな奴はほおっておけ。
大切なのは、一切が俺たちのための成長の糧だということだ。
あらゆる孤独も全て前向きに捉えられる。

夜の気配に潰される君を見たくない。
君はもっと優雅に自信を持って生きるべきだ。
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緑雨

Author:緑雨
無職男性(22)

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