岬にての五重奏
岬にての五重奏
懊悩の闇を照らす道標は月光だけだ。
リツ子はひたすら野道を歩いている。右手の手提げバックからは葡萄酒が頭を覗かせていた。このまま二十分程歩くと鋭く突き出た崖にぶちあたる。リツ子はその岬のは端の父の住む一軒家を目指していた。父の好物である葡萄酒をたずさえて、その懐かしきおもかげと対面しようと思ったのである。
すでに午後八時を過ぎていて、もとより野路に街灯などという文明の利器の存在するはずもなく、この黒洞々たる夜には虫の音が高らかに鳴り響き、月が沈黙の服旋律を奏でていた。
このの道は歩き慣れている。昔はこの野原でよく遊んだもので、暗い中でも恐怖感は余り感じなかった。リツ子はなるたけ草のしげっていないところを歩こうと紆余曲折して進んだ。車を持っていないわけではない。車で行けないわけではないのであるが、一本道ほど詰まらないものはなく、ときにはこういった非合理的手段こそが人生を面白くするのであるとリツ子は思った。
ふとアザミの真っ赤に燃えたのが目にとまった。思えばここがこのような荒れ野になったのはいつからだっけ。たしか十年くらい前だった。あの頃は……少なくとも今のように荒れ野ばかりという所ではなかった。ユキちゃんやノゾミちゃんとここら辺でよくママゴトして遊んだものだっけ……太陽がとても眩しかった。アザミの花をたくさん摘んで頭に飾ったりした。そうそうリョウ君もいた。イタズラっぽい元気な瞳がよみがえる。よく私にキスしてきたなぁ。ユキちゃんもノゾミちゃんもリョウ君も今は一人もここにはいない。アザミの花を手にとろうとしたが、風に揺られてわずかに手が届かなかった。
リツ子はふたたび無言で歩きだした。そろそろ左右を見渡すと両側がともに崖になっているのが分かった。苦い潮風が空を満たしていた。ああ、母さん……。夜にこの潮風を受けると、どうしても……母の死を思い出してしまう。小学五年生の時である。私はませていて、早くも反抗期を迎えていた。母にはとくにひどく反抗した。全てのことに一々と口を出す母が非常に嫌だったのだ。女の子だったらこのくらいのことはできなくちゃダメよ。その声が頭に鑿を打ち込むように響く。私には、私の生き方があるのだ。私から出て行け。大人なんて不浄だ。
母の死は唐突にきた。街に出ていったおり、車に轢かれての即死だった。当時の私は心底から母を憎んでいた。母の報をはじめて聞いたのは学校であった。「リッちゃん。お母さんが車に轢かれて重体らしいんだ。今から先生と一緒に病院に向かうよ」世の中のことを何も知らない私は「私の気をひこうとして母さんが去る芝居をうっているんだ、そうに違いない」と思った。荒唐無稽な思想だ。必死の形相をして運転する先生を傍目に、せせら笑うように「白布でも買ってく?」と言った。じじつは即死なので、重体と知らせた先生は既に母の死んでいるのを知っていたのであろう。顔は明らかに慌てていた。私は今でもときおりこの時のやりとりを何かにつけて思いだして、苦しむ。
リツ子は次第に歩くのが速くなっていった。黙々と闇をくぐり抜けていく。冴えかかる月が空を緊張させている。波の音は静まりかえり、虫の音も嘘のように途絶えた。沈黙の音だけがやかましかった。頭に荒波が打ち寄せた。その波の引くとき私自身が引きずり込まれそうになった。誰かが背中を押す。やめろ、やめろ。一体お前は誰だとふり向けば、そこには紛れもない自分がいた。……
ざざあ、と鋭い波の音がした。とたん、また虫の合唱が始まった。リツ子はほとんど早歩きであった。あ、ようやく見えた。懐かしい我が家。闇の中の黒い輪郭、いや、今日は一体どうしたものか。家にまったく灯りが点いていないのだ。一体何事であろう。
リツ子はふと嫌な予感がして慌てて走った。手に力が入り、髪が乱れる。嶮浪が迫る。風が燃えて、ものすごい勢いで冷却する。かっと見開いた眼は闇の中の古びた昭和十年代の小さな木造建築をつよく志向していた。一切の元型はそこに集約していた。
「父さん!?」
同じ過ちを繰り返したくない……。リツ子は鍵の掛かっていないガラス戸を勢いよく開け放った。
「お母さん!?」
扉を開けた先の、白布被って、じっと動かないのを見ると、私はこの母のことをじつはとても愛しているということを知った。その時、はじめて涙が出て、ほとばしる水は際限を知らなかった。風が、波が私を押し倒し、一瞬世界がくらくらと回ったと思ったら私は……ぼんやりと記憶が戻ったのは、そうだ、この家の二階であった。
父さんはどこにいるの! リツ子は「父さーん!」と叫びつつ、居間、風呂、応接間、トイレなどに電気をつけて入念に父を探す。いない、ここにもいない。一階にはもうこれ以上部屋はない。だったら二階か。階段を上がってゆく……香の匂いがふわふわとただよってきた。いや、ちがう。別に何の匂いもない。私は階段を降りていった。なにもかも忘れていた。午睡から覚めた、あの気楽さであった。ガイコツに風が飄々と吹き抜け……ちがう、ちがう! 変にがやがやと騒がしかった。何事かと訝って、光! 光! 光! いや、ちがうのだ。闇だ! つき抜ける闇! 波の、白波が大きく崩れて世界が傾いた。
リツ子は暗闇の二階に上がった。父が工場から帰って来る時の影をふと思い出す。父を思うとき、脳裏に浮かぶのはいつもこの顔だ。口はいつものへの字をして、右目が補足、眉間には深い皺が刻まれていた。油とすすで、てかっていた。その黒てかりの面は母に、はなはだ無愛想に「風呂」と大きいとも小さいともつかぬ声でいった。私はそれをじっと聞いていた。その声についてはただただ恐ろしいという意識が先行していたのである。母には反抗したが、父には反抗することが出来なかった。
二階も全て探したが、父の姿は見当たらなかった。私はあわてふためき、まさに周章狼狽、も一度階段を下りようとしたその時であった。
「あ、父さん」
階段の下の応接間の前の廊下、無言で父さんは立っていた。すすびた顔だ。父さん! リツ子は夢中で駆けだした。少し頭が混乱したが、それは一瞬であった。
「ほら、父さんの好きな葡萄酒だよ!」
父はリツ子の差し出した葡萄酒を見るとも見ぬともどちらとも言えない仕草をし、いや、仕草はむしろなかったのだ。父は静かに居間のほうに手招きした。リツ子は素直にそれに従った。
居間は畳にちゃぶ台があって、旧式の白黒テレビが据えてある。葡萄酒というとブルジョワやインテリが飲むように響くが、一労働者たる父はそれをこよなく愛し、それを好んで飲んだ。父はテレビの真向かいに腰をおろした。リツ子はその隣に座った。グラスはすでに机の上に置かれていた。台所に行って、コルク抜きを探す。すぐに見つかった。コルクを抜くのは私の役目だったのだ。私はていねいにコルクを抜いた。時価十万円のしろものである。
もどると父は野球を見ていた。いつもの無愛想な顔で、頬杖をついている。父のグラスに少し注いだ。父はテレビを見つめて、独り言のように、
「リツ子……うまくやっておるか」
と言った。リツ子は自分の今の生活を想う。泣きたくなった。全然うまくなんかやってない。もう、てんで、ハナシにならなかった。だが、
「ええ……」
父はそれを聞くと、無愛想の中にも少し微笑が香った。
ざざあ、と鋭い波の音がした。リツ子の目は見えなくなった。……いや、そうではない。外界が急に暗くなったけはいであった。
「え、父さん? お父さん!?」
父はそこにはいなかった。そのときはっと、そうだった、父は一昨年のくれに癌で亡くなったのだ、まことにそうであった……リツ子は軽い眩暈を感じて、ぴんと鳴らした指がゆらめいた。コオオロギの声が聞こてくる。家の中は真っ暗で、リツ子の身体は埃だらけであった。
リツ子は立ち上がって、誇りをはたき、外を見ると、……なんということだ。ああ、もうやめて! 火が……火がパチパチと勢い高く舞っていたのである。そして、その火を見つめる二人……まさに父とリツ子に他ならなかった! 母の棺を燃やしているのである。リツ子は目をつぶり、耳を覆った。頭がガンガン鳴った。
葡萄酒をもって外に出た。岬の端に向かう。夜はいよいよ深かった。月光は淫乱なまでになまめかしい。風が私の分身を産み、それは流されていった。
とうとう、岬の先端に来た。海は三十メートルほど下である。崖はほぼ垂直のかたちであった。リツ子は葡萄酒をこの虚無の中へ流し込んだ。月光は葡萄酒を鮮血のように演出させ、下に落ちていくに従って黒々とした血になった。酒は水烟に飲まれ、何事もなかったように波はうち続ける。いや、違う! 波は酔っていた! そして、この上もなく深深とした形象は海を出でて空を駆け巡り、リツ子の背中を押した。リツ子は闇の中二オチ、闇の駆け抜ける駆け抜ける。たちまちリツ子は翼を得て、月の光へ吸い込まれるように天高く舞いくるい、いずかたへか飛び去り、横になった葡萄酒の瓶からはぼとぼとリツ子の鮮血を深く海へ流し込んでいた。
* * *
これまた古い作品ですが、何も整えず掲載。
懊悩の闇を照らす道標は月光だけだ。
リツ子はひたすら野道を歩いている。右手の手提げバックからは葡萄酒が頭を覗かせていた。このまま二十分程歩くと鋭く突き出た崖にぶちあたる。リツ子はその岬のは端の父の住む一軒家を目指していた。父の好物である葡萄酒をたずさえて、その懐かしきおもかげと対面しようと思ったのである。
すでに午後八時を過ぎていて、もとより野路に街灯などという文明の利器の存在するはずもなく、この黒洞々たる夜には虫の音が高らかに鳴り響き、月が沈黙の服旋律を奏でていた。
このの道は歩き慣れている。昔はこの野原でよく遊んだもので、暗い中でも恐怖感は余り感じなかった。リツ子はなるたけ草のしげっていないところを歩こうと紆余曲折して進んだ。車を持っていないわけではない。車で行けないわけではないのであるが、一本道ほど詰まらないものはなく、ときにはこういった非合理的手段こそが人生を面白くするのであるとリツ子は思った。
ふとアザミの真っ赤に燃えたのが目にとまった。思えばここがこのような荒れ野になったのはいつからだっけ。たしか十年くらい前だった。あの頃は……少なくとも今のように荒れ野ばかりという所ではなかった。ユキちゃんやノゾミちゃんとここら辺でよくママゴトして遊んだものだっけ……太陽がとても眩しかった。アザミの花をたくさん摘んで頭に飾ったりした。そうそうリョウ君もいた。イタズラっぽい元気な瞳がよみがえる。よく私にキスしてきたなぁ。ユキちゃんもノゾミちゃんもリョウ君も今は一人もここにはいない。アザミの花を手にとろうとしたが、風に揺られてわずかに手が届かなかった。
リツ子はふたたび無言で歩きだした。そろそろ左右を見渡すと両側がともに崖になっているのが分かった。苦い潮風が空を満たしていた。ああ、母さん……。夜にこの潮風を受けると、どうしても……母の死を思い出してしまう。小学五年生の時である。私はませていて、早くも反抗期を迎えていた。母にはとくにひどく反抗した。全てのことに一々と口を出す母が非常に嫌だったのだ。女の子だったらこのくらいのことはできなくちゃダメよ。その声が頭に鑿を打ち込むように響く。私には、私の生き方があるのだ。私から出て行け。大人なんて不浄だ。
母の死は唐突にきた。街に出ていったおり、車に轢かれての即死だった。当時の私は心底から母を憎んでいた。母の報をはじめて聞いたのは学校であった。「リッちゃん。お母さんが車に轢かれて重体らしいんだ。今から先生と一緒に病院に向かうよ」世の中のことを何も知らない私は「私の気をひこうとして母さんが去る芝居をうっているんだ、そうに違いない」と思った。荒唐無稽な思想だ。必死の形相をして運転する先生を傍目に、せせら笑うように「白布でも買ってく?」と言った。じじつは即死なので、重体と知らせた先生は既に母の死んでいるのを知っていたのであろう。顔は明らかに慌てていた。私は今でもときおりこの時のやりとりを何かにつけて思いだして、苦しむ。
リツ子は次第に歩くのが速くなっていった。黙々と闇をくぐり抜けていく。冴えかかる月が空を緊張させている。波の音は静まりかえり、虫の音も嘘のように途絶えた。沈黙の音だけがやかましかった。頭に荒波が打ち寄せた。その波の引くとき私自身が引きずり込まれそうになった。誰かが背中を押す。やめろ、やめろ。一体お前は誰だとふり向けば、そこには紛れもない自分がいた。……
ざざあ、と鋭い波の音がした。とたん、また虫の合唱が始まった。リツ子はほとんど早歩きであった。あ、ようやく見えた。懐かしい我が家。闇の中の黒い輪郭、いや、今日は一体どうしたものか。家にまったく灯りが点いていないのだ。一体何事であろう。
リツ子はふと嫌な予感がして慌てて走った。手に力が入り、髪が乱れる。嶮浪が迫る。風が燃えて、ものすごい勢いで冷却する。かっと見開いた眼は闇の中の古びた昭和十年代の小さな木造建築をつよく志向していた。一切の元型はそこに集約していた。
「父さん!?」
同じ過ちを繰り返したくない……。リツ子は鍵の掛かっていないガラス戸を勢いよく開け放った。
「お母さん!?」
扉を開けた先の、白布被って、じっと動かないのを見ると、私はこの母のことをじつはとても愛しているということを知った。その時、はじめて涙が出て、ほとばしる水は際限を知らなかった。風が、波が私を押し倒し、一瞬世界がくらくらと回ったと思ったら私は……ぼんやりと記憶が戻ったのは、そうだ、この家の二階であった。
父さんはどこにいるの! リツ子は「父さーん!」と叫びつつ、居間、風呂、応接間、トイレなどに電気をつけて入念に父を探す。いない、ここにもいない。一階にはもうこれ以上部屋はない。だったら二階か。階段を上がってゆく……香の匂いがふわふわとただよってきた。いや、ちがう。別に何の匂いもない。私は階段を降りていった。なにもかも忘れていた。午睡から覚めた、あの気楽さであった。ガイコツに風が飄々と吹き抜け……ちがう、ちがう! 変にがやがやと騒がしかった。何事かと訝って、光! 光! 光! いや、ちがうのだ。闇だ! つき抜ける闇! 波の、白波が大きく崩れて世界が傾いた。
リツ子は暗闇の二階に上がった。父が工場から帰って来る時の影をふと思い出す。父を思うとき、脳裏に浮かぶのはいつもこの顔だ。口はいつものへの字をして、右目が補足、眉間には深い皺が刻まれていた。油とすすで、てかっていた。その黒てかりの面は母に、はなはだ無愛想に「風呂」と大きいとも小さいともつかぬ声でいった。私はそれをじっと聞いていた。その声についてはただただ恐ろしいという意識が先行していたのである。母には反抗したが、父には反抗することが出来なかった。
二階も全て探したが、父の姿は見当たらなかった。私はあわてふためき、まさに周章狼狽、も一度階段を下りようとしたその時であった。
「あ、父さん」
階段の下の応接間の前の廊下、無言で父さんは立っていた。すすびた顔だ。父さん! リツ子は夢中で駆けだした。少し頭が混乱したが、それは一瞬であった。
「ほら、父さんの好きな葡萄酒だよ!」
父はリツ子の差し出した葡萄酒を見るとも見ぬともどちらとも言えない仕草をし、いや、仕草はむしろなかったのだ。父は静かに居間のほうに手招きした。リツ子は素直にそれに従った。
居間は畳にちゃぶ台があって、旧式の白黒テレビが据えてある。葡萄酒というとブルジョワやインテリが飲むように響くが、一労働者たる父はそれをこよなく愛し、それを好んで飲んだ。父はテレビの真向かいに腰をおろした。リツ子はその隣に座った。グラスはすでに机の上に置かれていた。台所に行って、コルク抜きを探す。すぐに見つかった。コルクを抜くのは私の役目だったのだ。私はていねいにコルクを抜いた。時価十万円のしろものである。
もどると父は野球を見ていた。いつもの無愛想な顔で、頬杖をついている。父のグラスに少し注いだ。父はテレビを見つめて、独り言のように、
「リツ子……うまくやっておるか」
と言った。リツ子は自分の今の生活を想う。泣きたくなった。全然うまくなんかやってない。もう、てんで、ハナシにならなかった。だが、
「ええ……」
父はそれを聞くと、無愛想の中にも少し微笑が香った。
ざざあ、と鋭い波の音がした。リツ子の目は見えなくなった。……いや、そうではない。外界が急に暗くなったけはいであった。
「え、父さん? お父さん!?」
父はそこにはいなかった。そのときはっと、そうだった、父は一昨年のくれに癌で亡くなったのだ、まことにそうであった……リツ子は軽い眩暈を感じて、ぴんと鳴らした指がゆらめいた。コオオロギの声が聞こてくる。家の中は真っ暗で、リツ子の身体は埃だらけであった。
リツ子は立ち上がって、誇りをはたき、外を見ると、……なんということだ。ああ、もうやめて! 火が……火がパチパチと勢い高く舞っていたのである。そして、その火を見つめる二人……まさに父とリツ子に他ならなかった! 母の棺を燃やしているのである。リツ子は目をつぶり、耳を覆った。頭がガンガン鳴った。
葡萄酒をもって外に出た。岬の端に向かう。夜はいよいよ深かった。月光は淫乱なまでになまめかしい。風が私の分身を産み、それは流されていった。
とうとう、岬の先端に来た。海は三十メートルほど下である。崖はほぼ垂直のかたちであった。リツ子は葡萄酒をこの虚無の中へ流し込んだ。月光は葡萄酒を鮮血のように演出させ、下に落ちていくに従って黒々とした血になった。酒は水烟に飲まれ、何事もなかったように波はうち続ける。いや、違う! 波は酔っていた! そして、この上もなく深深とした形象は海を出でて空を駆け巡り、リツ子の背中を押した。リツ子は闇の中二オチ、闇の駆け抜ける駆け抜ける。たちまちリツ子は翼を得て、月の光へ吸い込まれるように天高く舞いくるい、いずかたへか飛び去り、横になった葡萄酒の瓶からはぼとぼとリツ子の鮮血を深く海へ流し込んでいた。
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これまた古い作品ですが、何も整えず掲載。
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