消灯の願い
「注意すべきは敵ではなく、友人である」とラ・ロシュフコーは言ったが、私もそれに賛同する。なぜかと言えば、敵に対しては私たちは嫌悪感を抱き、排除をするが故に、もし彼らが「悪」を行ったとしても私たちはそれを真似ることは決してないのであるが、友が「悪」を行った時、私たちはその「悪」を模倣して、自らが「悪」の加担者になる危険性があるからだ。それゆえに、私たちは、敵よりも友に用心せねばならぬ。
今私が上で行った小さな分析は非常に粗雑なものである。というのも、そもそも「悪」とは何か、「悪」とはどこからくるのかということが定義されていないからである。すなわち、それは裏返って善とは何か、という問題にもなり、哲学の初めからさんざん議論されてきた話題に連れ戻されてしまう。
・・・
プラトンは「真善美」の一体を主張した。真なるものは美しく、また善であるのである。それゆえ、詩人は現実を模倣して「偽」を作るが故に、悪であり、それゆえに国家から追放されるべきであったのである。
おもえらく、それを歴史上ひっくり返した功績はボードレールに与えられるべきであろう。『悪の華』とは、「悪だけれども美である」と主張したのではなく、「悪こそが美である」と主張したこれまでに類を見ない著作であった。ジュネの小説もまた、このペテンの系譜に連なるものである。
悪だと思って悪をやるのはただの悪人である。なぜなら、それは悪なのだから。非行少年は、カッパライを悪だと認識して行っている。悪だからこそやるのだ。私は決してこの行為自体を賞賛する気にはならない。非行少年は、いわば、世間とグルであり、何の告発性もない。世界に所与の存在として、善と悪があり、その一方を選んだに過ぎない。(注1:私は「選んだ」と言った。果たして、これが自らの自由意志であったのか。その点については、より正確に言うのであれば、留保をつけなければならない。私たちは初めから無のごとき自由意志を携えて、世界にやってくるわけではなく、所与の存在を通して、混じりけのある無を携えて社会に生まれる。このような社会的存在論からまず「選択」は探求されるべきであると私は思っている。注:サルトルは『聖ジュネ』の中でジュネが悪のために悪を欲している様を肯定的に描いているのではないか。それについてどう思うかと問われる人もあるかもしれない。それには、こう答える。ジュネが非行を行うのは、「悪」という社会から投影された「他者」に自己の本質を変容させられてしまったからに他ならず、それをヴォロンタリスムから徹底主義敵に引き受ける作戦をとる。それはこれから述べる所の「愛」に他ならない。なお、サルトルはジュネの行った悪行それ自体に対して偉大だと叫んでいる訳ではなく、むしろその徹底主義と主意主義、そしてそれから時間を経て芸術家になるジュネこそを讃えているのである。)
本当に恐ろしい行為とは、人をだますことである。だが騙すためには相手に取り入らねばならぬ。私たちが悪徳商法に騙されるのは、それが悪徳商法だと気が付いていないからだ。相手に油断をさせなければ、相手に心を開かせなければ騙すことは容易ではない。
……見知らぬ人から嫌われるのはあまり怖いことではない。しょせん私のことを知らないのだから。だが、親密になった人から嫌われるのは心底から恐ろしいことだ。私のことを知っているのに、私を否定するからだ。もし嫌いな人間に大きな打撃を与えたいのであれば、まず彼に取り入らねばならぬ。彼に愛されねばならぬ。その上で裏切った時、彼は大きな打撃を受けるだろう。ジュネが愛と裏切りを語るのは、このような意味においてである。
もし倫理的な「作品」があるのだとしたら、それはそのような裏切る作品であろう。なぜならば、それは一方に善があり、一方に悪があると言うマニ教的二元論から脱却して、まさに私たち自身こそが悪であることを教えるからだ。悪と分かり切ったものを悪だと告発するのは、社会に何らの影響も与えない。それは初めからそのように存在しており、またこれからもそのように存在するから。告発すべきは、他者ではなく、己自身である。私がもしその悪魔的な作品に騙されて、喜んで悪を行ったことを後になって青ざめ、まさにこんな作品は不道徳的であると非難することがあるのであれば、非難されるべきは私自身であり、より詳しく言うと、私の感受性である。
例えば、私はハロルド・ピンター『管理人』を優れた倫理的戯曲だと思っている。『管理人』は徹底してディスコミュニケーションが行われる一つの不条理劇である。会話は何度も途切れる。互いを探り合う気持ちの悪い逡巡のPauseがこの劇を支配している。私たちは役者たちのPauseに引き寄せられる。この劇は、登場人物皆がコミュニケーションという行為に絶望して、長いPauseとSilenceを伴って幕が下りる。だが、このPauseとSilenceは終劇において、劇そのものの演技としての沈黙なのか、それとも私たちの沈黙なのか極めて曖昧になり、私は「え、これで終わり?」と感じ、拍手をすればいいのかなにをすればいいのか戸惑うだろう。その戸惑いこそが、この劇を倫理的なものたらしめている。劇が私たちを巻き込み、私たちに反省意識を、ヘーゲル風に言えば不幸の意識を与えてくれているからである。
・・・
詩が不道徳なものに留まり続けるのは、感受性を新たにさせるからである。ランボーは「我が五感を合理的に狂わせなければならぬ」と言ったが、それはそのような意味で解されるべきであろう。意味の明るいものを暗くして、意味の暗いものを明るくすること。
以上の議論は、さっさと思いつくままに一時間程度で書いたものなので、依然に粗雑なものに留まっているが、一つ、状況の産物として置いておく。
さて、そろそろ寝るので明かりを消してくれないか。
今私が上で行った小さな分析は非常に粗雑なものである。というのも、そもそも「悪」とは何か、「悪」とはどこからくるのかということが定義されていないからである。すなわち、それは裏返って善とは何か、という問題にもなり、哲学の初めからさんざん議論されてきた話題に連れ戻されてしまう。
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プラトンは「真善美」の一体を主張した。真なるものは美しく、また善であるのである。それゆえ、詩人は現実を模倣して「偽」を作るが故に、悪であり、それゆえに国家から追放されるべきであったのである。
おもえらく、それを歴史上ひっくり返した功績はボードレールに与えられるべきであろう。『悪の華』とは、「悪だけれども美である」と主張したのではなく、「悪こそが美である」と主張したこれまでに類を見ない著作であった。ジュネの小説もまた、このペテンの系譜に連なるものである。
悪だと思って悪をやるのはただの悪人である。なぜなら、それは悪なのだから。非行少年は、カッパライを悪だと認識して行っている。悪だからこそやるのだ。私は決してこの行為自体を賞賛する気にはならない。非行少年は、いわば、世間とグルであり、何の告発性もない。世界に所与の存在として、善と悪があり、その一方を選んだに過ぎない。(注1:私は「選んだ」と言った。果たして、これが自らの自由意志であったのか。その点については、より正確に言うのであれば、留保をつけなければならない。私たちは初めから無のごとき自由意志を携えて、世界にやってくるわけではなく、所与の存在を通して、混じりけのある無を携えて社会に生まれる。このような社会的存在論からまず「選択」は探求されるべきであると私は思っている。注:サルトルは『聖ジュネ』の中でジュネが悪のために悪を欲している様を肯定的に描いているのではないか。それについてどう思うかと問われる人もあるかもしれない。それには、こう答える。ジュネが非行を行うのは、「悪」という社会から投影された「他者」に自己の本質を変容させられてしまったからに他ならず、それをヴォロンタリスムから徹底主義敵に引き受ける作戦をとる。それはこれから述べる所の「愛」に他ならない。なお、サルトルはジュネの行った悪行それ自体に対して偉大だと叫んでいる訳ではなく、むしろその徹底主義と主意主義、そしてそれから時間を経て芸術家になるジュネこそを讃えているのである。)
本当に恐ろしい行為とは、人をだますことである。だが騙すためには相手に取り入らねばならぬ。私たちが悪徳商法に騙されるのは、それが悪徳商法だと気が付いていないからだ。相手に油断をさせなければ、相手に心を開かせなければ騙すことは容易ではない。
……見知らぬ人から嫌われるのはあまり怖いことではない。しょせん私のことを知らないのだから。だが、親密になった人から嫌われるのは心底から恐ろしいことだ。私のことを知っているのに、私を否定するからだ。もし嫌いな人間に大きな打撃を与えたいのであれば、まず彼に取り入らねばならぬ。彼に愛されねばならぬ。その上で裏切った時、彼は大きな打撃を受けるだろう。ジュネが愛と裏切りを語るのは、このような意味においてである。
もし倫理的な「作品」があるのだとしたら、それはそのような裏切る作品であろう。なぜならば、それは一方に善があり、一方に悪があると言うマニ教的二元論から脱却して、まさに私たち自身こそが悪であることを教えるからだ。悪と分かり切ったものを悪だと告発するのは、社会に何らの影響も与えない。それは初めからそのように存在しており、またこれからもそのように存在するから。告発すべきは、他者ではなく、己自身である。私がもしその悪魔的な作品に騙されて、喜んで悪を行ったことを後になって青ざめ、まさにこんな作品は不道徳的であると非難することがあるのであれば、非難されるべきは私自身であり、より詳しく言うと、私の感受性である。
例えば、私はハロルド・ピンター『管理人』を優れた倫理的戯曲だと思っている。『管理人』は徹底してディスコミュニケーションが行われる一つの不条理劇である。会話は何度も途切れる。互いを探り合う気持ちの悪い逡巡のPauseがこの劇を支配している。私たちは役者たちのPauseに引き寄せられる。この劇は、登場人物皆がコミュニケーションという行為に絶望して、長いPauseとSilenceを伴って幕が下りる。だが、このPauseとSilenceは終劇において、劇そのものの演技としての沈黙なのか、それとも私たちの沈黙なのか極めて曖昧になり、私は「え、これで終わり?」と感じ、拍手をすればいいのかなにをすればいいのか戸惑うだろう。その戸惑いこそが、この劇を倫理的なものたらしめている。劇が私たちを巻き込み、私たちに反省意識を、ヘーゲル風に言えば不幸の意識を与えてくれているからである。
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詩が不道徳なものに留まり続けるのは、感受性を新たにさせるからである。ランボーは「我が五感を合理的に狂わせなければならぬ」と言ったが、それはそのような意味で解されるべきであろう。意味の明るいものを暗くして、意味の暗いものを明るくすること。
以上の議論は、さっさと思いつくままに一時間程度で書いたものなので、依然に粗雑なものに留まっているが、一つ、状況の産物として置いておく。
さて、そろそろ寝るので明かりを消してくれないか。
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