岬にての五重奏
懊悩の闇を照らす道標は月光だけだ。
リツ子はひたすら野道を歩いている。右手の手提げバックからは葡萄酒が頭を覗かせていた。このまま二十分程歩くと鋭く突き出た崖にぶちあたる。リツ子はその岬のは端の父の住む一軒家を目指していた。父の好物である葡萄酒をたずさえて、その懐かしきおもかげと対面しようと思ったのである。
すでに午後八時を過ぎていて、もとより野路に街灯などという文明の利器の存在するはずもなく、この黒洞々たる夜には虫の音が高らかに鳴り響き、月が沈黙の服旋律を奏でていた。
このの道は歩き慣れている。昔はこの野原でよく遊んだもので、暗い中でも恐怖感は余り感じなかった。リツ子はなるたけ草のしげっていないところを歩こうと紆余曲折して進んだ。車を持っていないわけではない。車で行けないわけではないのであるが、一本道ほど詰まらないものはなく、ときにはこういった非合理的手段こそが人生を面白くするのであるとリツ子は思った。
ふとアザミの真っ赤に燃えたのが目にとまった。思えばここがこのような荒れ野になったのはいつからだっけ。たしか十年くらい前だった。あの頃は……少なくとも今のように荒れ野ばかりという所ではなかった。ユキちゃんやノゾミちゃんとここら辺でよくママゴトして遊んだものだっけ……太陽がとても眩しかった。アザミの花をたくさん摘んで頭に飾ったりした。そうそうリョウ君もいた。イタズラっぽい元気な瞳がよみがえる。よく私にキスしてきたなぁ。ユキちゃんもノゾミちゃんもリョウ君も今は一人もここにはいない。アザミの花を手にとろうとしたが、風に揺られてわずかに手が届かなかった。
リツ子はふたたび無言で歩きだした。そろそろ左右を見渡すと両側がともに崖になっているのが分かった。苦い潮風が空を満たしていた。ああ、母さん……。夜にこの潮風を受けると、どうしても……母の死を思い出してしまう。小学五年生の時である。私はませていて、早くも反抗期を迎えていた。母にはとくにひどく反抗した。全てのことに一々と口を出す母が非常に嫌だったのだ。女の子だったらこのくらいのことはできなくちゃダメよ。その声が頭に鑿を打ち込むように響く。私には、私の生き方があるのだ。私から出て行け。大人なんて不浄だ。
母の死は唐突にきた。街に出ていったおり、車に轢かれての即死だった。当時の私は心底から母を憎んでいた。母の報をはじめて聞いたのは学校であった。「リッちゃん。お母さんが車に轢かれて重体らしいんだ。今から先生と一緒に病院に向かうよ」世の中のことを何も知らない私は「私の気をひこうとして母さんが去る芝居をうっているんだ、そうに違いない」と思った。荒唐無稽な思想だ。必死の形相をして運転する先生を傍目に、せせら笑うように「白布でも買ってく?」と言った。じじつは即死なので、重体と知らせた先生は既に母の死んでいるのを知っていたのであろう。顔は明らかに慌てていた。私は今でもときおりこの時のやりとりを何かにつけて思いだして、苦しむ。
リツ子は次第に歩くのが速くなっていった。黙々と闇をくぐり抜けていく。冴えかかる月が空を緊張させている。波の音は静まりかえり、虫の音も嘘のように途絶えた。沈黙の音だけがやかましかった。頭に荒波が打ち寄せた。その波の引くとき私自身が引きずり込まれそうになった。誰かが背中を押す。やめろ、やめろ。一体お前は誰だとふり向けば、そこには紛れもない自分がいた。……
ざざあ、と鋭い波の音がした。とたん、また虫の合唱が始まった。リツ子はほとんど早歩きであった。あ、ようやく見えた。懐かしい我が家。闇の中の黒い輪郭、いや、今日は一体どうしたものか。家にまったく灯りが点いていないのだ。一体何事であろう。
リツ子はふと嫌な予感がして慌てて走った。手に力が入り、髪が乱れる。嶮浪が迫る。風が燃えて、ものすごい勢いで冷却する。かっと見開いた眼は闇の中の古びた昭和十年代の小さな木造建築をつよく志向していた。一切の元型はそこに集約していた。
「父さん!?」
同じ過ちを繰り返したくない……。リツ子は鍵の掛かっていないガラス戸を勢いよく開け放った。
「お母さん!?」
扉を開けた先の、白布被って、じっと動かないのを見ると、私はこの母のことをじつはとても愛しているということを知った。その時、はじめて涙が出て、ほとばしる水は際限を知らなかった。風が、波が私を押し倒し、一瞬世界がくらくらと回ったと思ったら私は……ぼんやりと記憶が戻ったのは、そうだ、この家の二階であった。
父さんはどこにいるの! リツ子は「父さーん!」と叫びつつ、居間、風呂、応接間、トイレなどに電気をつけて入念に父を探す。いない、ここにもいない。一階にはもうこれ以上部屋はない。だったら二階か。階段を上がってゆく……香の匂いがふわふわとただよってきた。いや、ちがう。別に何の匂いもない。私は階段を降りていった。なにもかも忘れていた。午睡から覚めた、あの気楽さであった。ガイコツに風が飄々と吹き抜け……ちがう、ちがう! 変にがやがやと騒がしかった。何事かと訝って、光! 光! 光! いや、ちがうのだ。闇だ! つき抜ける闇! 波の、白波が大きく崩れて世界が傾いた。
リツ子は暗闇の二階に上がった。父が工場から帰って来る時の影をふと思い出す。父を思うとき、脳裏に浮かぶのはいつもこの顔だ。口はいつものへの字をして、右目が補足、眉間には深い皺が刻まれていた。油とすすで、てかっていた。その黒てかりの面は母に、はなはだ無愛想に「風呂」と大きいとも小さいともつかぬ声でいった。私はそれをじっと聞いていた。その声についてはただただ恐ろしいという意識が先行していたのである。母には反抗したが、父には反抗することが出来なかった。
二階も全て探したが、父の姿は見当たらなかった。私はあわてふためき、まさに周章狼狽、も一度階段を下りようとしたその時であった。
「あ、父さん」
階段の下の応接間の前の廊下、無言で父さんは立っていた。すすびた顔だ。父さん! リツ子は夢中で駆けだした。少し頭が混乱したが、それは一瞬であった。
「ほら、父さんの好きな葡萄酒だよ!」
父はリツ子の差し出した葡萄酒を見るとも見ぬともどちらとも言えない仕草をし、いや、仕草はむしろなかったのだ。父は静かに居間のほうに手招きした。リツ子は素直にそれに従った。
居間は畳にちゃぶ台があって、旧式の白黒テレビが据えてある。葡萄酒というとブルジョワやインテリが飲むように響くが、一労働者たる父はそれをこよなく愛し、それを好んで飲んだ。父はテレビの真向かいに腰をおろした。リツ子はその隣に座った。グラスはすでに机の上に置かれていた。台所に行って、コルク抜きを探す。すぐに見つかった。コルクを抜くのは私の役目だったのだ。私はていねいにコルクを抜いた。時価十万円のしろものである。
もどると父は野球を見ていた。いつもの無愛想な顔で、頬杖をついている。父のグラスに少し注いだ。父はテレビを見つめて、独り言のように、
「リツ子……うまくやっておるか」
と言った。リツ子は自分の今の生活を想う。泣きたくなった。全然うまくなんかやってない。もう、てんで、ハナシにならなかった。だが、
「ええ……」
父はそれを聞くと、無愛想の中にも少し微笑が香った。
ざざあ、と鋭い波の音がした。リツ子の目は見えなくなった。……いや、そうではない。外界が急に暗くなったけはいであった。
「え、父さん? お父さん!?」
父はそこにはいなかった。そのときはっと、そうだった、父は一昨年のくれに癌で亡くなったのだ、まことにそうであった……リツ子は軽い眩暈を感じて、ぴんと鳴らした指がゆらめいた。コオオロギの声が聞こてくる。家の中は真っ暗で、リツ子の身体は埃だらけであった。
リツ子は立ち上がって、誇りをはたき、外を見ると、……なんということだ。ああ、もうやめて! 火が……火がパチパチと勢い高く舞っていたのである。そして、その火を見つめる二人……まさに父とリツ子に他ならなかった! 母の棺を燃やしているのである。リツ子は目をつぶり、耳を覆った。頭がガンガン鳴った。
葡萄酒をもって外に出た。岬の端に向かう。夜はいよいよ深かった。月光は淫乱なまでになまめかしい。風が私の分身を産み、それは流されていった。
とうとう、岬の先端に来た。海は三十メートルほど下である。崖はほぼ垂直のかたちであった。リツ子は葡萄酒をこの虚無の中へ流し込んだ。月光は葡萄酒を鮮血のように演出させ、下に落ちていくに従って黒々とした血になった。酒は水烟に飲まれ、何事もなかったように波はうち続ける。いや、違う! 波は酔っていた! そして、この上もなく深深とした形象は海を出でて空を駆け巡り、リツ子の背中を押した。リツ子は闇の中二オチ、闇の駆け抜ける駆け抜ける。たちまちリツ子は翼を得て、月の光へ吸い込まれるように天高く舞いくるい、いずかたへか飛び去り、横になった葡萄酒の瓶からはぼとぼとリツ子の鮮血を深く海へ流し込んでいた。
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これまた古い作品ですが、何も整えず掲載。
読書感想文など
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野崎歓『異邦の香り──ネルヴァル「東方紀行」論』は、表題の通り、ネルヴァルの長大な旅行記についての書物ですが、単なる文学研究書と言うよりは、この本自体が「異邦の香り」の刺激をくれる書物でした。ネルヴァルは東方体験から西洋に批判の眼差しを得るのみならず、差異を差異として楽しみ、民衆の雑踏、市井という迷宮の中へと自らを巻き込んでいきます。ネルヴァルの旅行記は、著者も指摘するように、オリエンタリズムから外れた所にあります。サン=テグジュペリは「人間の帝国は心の内側にある」と云いますが、ネルヴァルは、その外-内を縦横無尽に楽しんでいるように見えました。
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サルトル、ガヴィ、ヴィクトール『反逆は正しいⅠⅡ』は、昔に一度読んだことがあったのですが、B=H・レヴィの眼で悲しく読んだ記憶が残っていました。かなり久しぶりに再読したのですが、多少の悲しさはやはり感じました。自らが「知的スター」であることを、そしてそのある種の滑稽さ、哀しみを十分に実感していることに由るのでしょうか。それはさておき、この本は、72年から74年の間に行われたサルトルのひとまとまりの対談です。アクチュアルな政治的問題に触れながら、自由・疎外・実践・道徳・愛・友情など様々な問題について思考しています。サルトルの政治行動の結果的な是非はひとまず措くとして、意外と得る所が多かったです。サルトル自身はこの一連の対話を「自由についての討論」と呼びたいと言っていますが、むしろ私が通奏低音で感じ取ったのは、「友情」とは何か、という問いでした。サルトルは、自己犠牲の精神を批判します。「犠牲愛というやつは、党について感じうるもっともぞっとしたものだ(Ⅰ220)」「一生ぼくは犠牲精神というものをたたき続けてきた(Ⅰ222)」本当の革命家たちは「自分を犠牲にするのではない。彼らはある種の生を得ようと努めている(Ⅰ228)」のです。そして友情とは「じつに大事なことである。(Ⅰ225)」というのも、「ぼくのなすことが報われている──であるから[その行為が]犠牲にはならない。一緒に活動している人々は友人なのだから(Ⅰ224)」またサルトルの道徳への洞察も私は感動した。「道徳の体系は上部構造だ。けれども生きた道徳性というのは生産のレヴェルにある(Ⅰ141)」生きた道徳性とは、流動体である。ところで余談ながら、マオ派の非合法性を賞賛するサルトルを見ながら感じた事。デモは一般的に警察に守られて行われるものだと認識しているのだけれど、「合法的なデモ」ってなんだろうと私は考えさせられた。
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田川建三『宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉』は面白かったのですが、著者の毒があまりに強すぎたせいでしょうか(よく言えばポレミックな文体と言うのであろうか)、あまり気持ちの良い読書体験ではありませんでした。この本で、もっとも私が面白かったのは、近代合理主義の否定としての宗教というのは逆にそれを肯定する力になるのだという論旨です。すなわち、宗教をそのような存在として担ぎ出すこと自体が「近代合理主義」的考え方だというのです。著者は、「宗教学」の発生からその変遷を素描します。そこから得られる答えとは、宗教学とはあらゆる宗教にある抽象的・普遍的な「宗教的なもの」を取り出す営為であるけれども、そうした営為は、心臓を有機体を動かす物として位置付けるのではなく、心臓のみを取り出すような考察に陥ってしまうでしょう。すなわちこのような発想は、そのまま近代科学の発想であると著者は言うのです。第二章では、共同訳の「懇切丁寧な『翻訳』」にイチャモンをつけますが、翻訳というものの難しさを改めて教えてくれる一面もあるにはあるのですが、(1)共同訳は現代では別にスタンダードではないこと(2)完膚無きまでに叩きのめすが、そこまでの必要性を感じないことの二点が読んでいて、多少苦痛でした。第三章では、遠藤周作『イエスの生涯』を論じます。著者は、遠藤の表記の間違いや専門用語、歴史誤認、聖書誤読を強く否定しますが、たしかに専門的な学者からのそうした指摘は貴重であると思う一方で、遠藤周作自体を「センチメンタルな「負け犬」の心情(215)」と言ってしまうのは、やや言い過ぎではないかと思います。正直、この種の無用な「言い過ぎ」が多いのが少し苦痛でした。次は『イエスという男』を読んでみようと思います。
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藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』読む。全篇面白かった。「じじぬき」「ミノタウロスの皿」「一千年後の再会」がとくに面白かったです。エスプリの利いた短編もヒリリと辛くて好きですが、人間を相対化する巨大な視点の後の、それでも残る人間への信頼を描く傾向の短編も感動的です。そういえば、「ドラえもん」にはたくさん忘れられない話があるのですが、その中であまり有名ではないけれども好きな短編がある。「てんとう虫コミック第6巻」にある「こいのぼり」と言う短編。一見「普通」のようが、よくよく見ると割り切れないものがたくさん残る怪作だと思う。ラストシーンも秀逸。
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小説や漫画の感想をツイッターで書く時、どこまで筋を書いていいのかっていうのは難しい問題である。それらについてもう少し踏み込んで書こうと思うのならやはりブログか。(というのもツイッターだと知りたくなかった筋を心ならず見てしまう危険がより高いためだ。)
エンタメの場合、その多くは物語が重要要素になる。ときに物語の面白さは、謎を提示し、その謎を宙づりにしたまま、読者に物語全体という「永遠」の視点を与えず、宙づりの不安定な「現在」におしとどめるところから発生する。筋を書いてしまっては、本来、その不安定な「現在」を楽しむものであるのに、永遠の視点を得てしまう。興が殺がれるのは当然である。ネットスラングでネタバレを「犯人はヤス」と言うこともあるが、そうした宙づりsuspenseの無効化を、サスペンスによって表現するのは象徴的だ。だけれども、ネタバレが完全に最初からないかと言うとそうではない。例えば、文庫本は裏表紙や表表紙にそれがどのような本であるのか大まかな紹介が付されている事がある。多少の「ネタバレ」は読もうとする者にとってむしろ必要である。(そういえば、「題名」は作品の回帰する場所であり、往々にして一番簡易な要約であることもあるが、そこを通過して作品世界に入ることが私たちにとって多いと思うのだが、「題名」の効果を突き詰めるのも面白そう。デリダも『境域』でやってたりしますが…)
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『イエスという男』を読みつつ何度も想起するのはジュネである。
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「愛を知る人というのは、取ることと与えることとが一つであるような人間、取ることによって与え、与えることによって取るような人間なのであろう。」
「如何なる場合にも、愛を知る人は、各瞬間、自分が何のために生きているかを知っている人である──この何かが実現されることがなくても。」
ジンメル『愛の断想・日々の断想』より
サルトルと道徳思想(1)
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サルトルの倫理思想は通常三つに分けられ、それぞれ「第一の倫理学」「第二の倫理学」「第三の倫理学」と呼ばれる。
A.)「第一の倫理学」──本来性のモラル(39?~?)
a) 『存在と無』──人間存在の存在論的探究。来るべきモラルへの土台。
b) 『文学とは何か』──自由への呼びかけ(ジェネロジテ)。相互承認による「目的の王国」の夢。Mit-seinの探求。
c) 『倫理学ノート』☆──抑圧から革命へ。歴史と普遍の綜合としての具体的普遍の創造。
d) 『聖ジュネ』──神なき楽天主義。人間的聖性の探求。存在論レベルでの抑圧から、存在論レベルでの勝利。「負けるが勝ち」(Qui perd gagne)
e) 『言葉』──聖性への拒否。本来性のモラルの放棄?
f) 『家の馬鹿息子』──年代的にはB~Cの中間点にあるのだが探究自体としてはここに入ると思う。
B.)「第二の倫理学」──社会主義のためのモラル(60~64年?)
a) 『弁証法的理性批判』
b) 「ローマ講演」☆
C.)「第三の倫理学」──他者のためのモラル(79?~80年)
a) 『いま、希望とは』(avec ベニ・レヴィ)☆──対話の複数的思考。「世界-内-存在」には、まず「世界」との、他者との出会いがある。存在論に先行する倫理学。「人類みな兄弟」という神話的思考。
b) 『権力と自由』(par ベニ・レヴィ)
今日は、A.の「第一の倫理学」を扱う。☆をつけたのは、中核になるもの。はじめに言っておくと、第二、第三は通常の学説通りだけど、「第一の倫理学」は狭義では『倫理学ノート』一本にされてしまいます。しかし、私は少なくとも『聖ジュネ』はここに入れるべきだと思うし──と考えると、こういうラインナップになってしまったわけですが、この是非については回を重ねていく時に微修正を入れていきながら考えていこうと思う。
問題点は、1)自由な選択と存在論はいかなる関係をもっているか、2)そしてその関係は非本来的実存と自由の倫理の問題とどのようにつながるのか、の二点である。これは、すなわち間主観性の領域に入っていくことを意味する。
具体的普遍──歴史的状況の中で見つける人間的なものの一体性。実存的存在論は歴史的である。
アランのStyle論との類似──というか、『嘔吐』の中に出て来るミシュレの完璧性もか。
宗教的倫理の否定(『倫理学ノート』から『聖ジュネ』における聖テレーズ批判まで)。すなわち、宗教的倫理は歴史的ではない上に、ドクマティックに自己正当化する倫理的原理であるのでは?(→「聖性」の誕生については『聖ジュネ』参照)サルトルの倫理を、私は「神なき楽天主義」と要約したい。
カントへの反論。定式的で、物自体的な倫理への批判。(『実存主義とは何か』、『倫理学ノート』参照)
存在論のサイクル性と、互酬的なエコノミー。(ベニ・レヴィが言うように、「他者」がやってくることは第一の倫理学において存在するのか検証すべし)
「私の場所」とêtre-làということ。(『存在と無』第四部参照)
「意識の場所」とは……? 空無。(→男性中心主義?)
「第一の倫理学」への有名な反応)
1)Francis Jeanson, Le problème moral et la pensée de Sartre 状況から人間は行動する。行動は自身の行う選択につねに送り返される。「自分の道を発見せねばならぬ、それは自分自身を自分で発見することであり、自由におのれを選ぶことでもある」
2)Simone de Beauvoir, L'ambiguïté de la morale 簡明な要約。
3)André Gorz, Fondements pour une Morale (完全に未読)
memo : friendship 2
私はよく自分を知っている。だが、どんな人の、どんなに純粋な鷹揚さでも、どんなに自由な無償の親切でも、必要に迫られて受けるものであれば、不快で押し付けがましく、非難の色を帯びたものに見えないわけにはいかない。与えると言うことは野心と優越の特質であるように、受けると言うことは屈服の特質である。
Je me connoy bien. Mais il m'est malaisé d'imaginer nulle si pure liberalité de personne envers moy, nulle hospitalité si franche et gratuite, qui ne me semblast disgratiée, tyrannique, et teinte de reproche, si la necessité m'y avoit enchevestré. Comme le donner est qualité ambitieuse, et de prerogative, aussi est l'accepter qualité de summission.
真の友情(私はそれに詳しいが)にあっては、私は自分のほうへ友を引っ張るよりも、友の方へ自分を与える。En la vraye amitié, de laquelle je suis expert, je me donne à mon amy, plus que je ne le tire à moy.彼が私を益するよりも、私が彼を益することを好むだけでなく、彼が、私よりも彼自身を益することを好む。彼が彼自身を益する時が、最も私を益するのである。また、もしもそばにいないことが彼にとって楽しく有益であれば、私にとっても、彼がそばにいることよりもずっと楽しい。それに、たがいに意志を通じ合う方法があれば本当の意味の不在ではない。私は以前、互いに離れている事から利益と喜びを得たことがある。二人は離れている事によってますます生活の所有を充実し拡充した。彼は私のために、生き、楽しみ、見、私も彼のために、同じことを、彼がそばにいたのと変わりなく十分に果たした。かえって、一緒にいる時に、どちらか一方が怠けていた。つまり、二人は混じり合っていたのだ。別々の場所にいることは我々の意志の結びつきを豊かにした。肉体的にそばにいることを飽くなく求めるのは、精神の享受がいささか弱いことを暴露している。
(筆者強調)
モンテーニュ「エセー三・九」原二郎訳
文体について(1)
『ミリンダ王の問い』で、ミリンダ王は尊者ナーガセーナに「人格的個体をなぜあなたは存在しないと考えるのか」と問う。ナーガセーナはこのように答える。「物質的なものや、感受作用、表象作用、識別作用、もしくはそれらの合体したものが人格的個体なのではない」と。ミリンダ王は「ではナーガセーナはいないのか?」と言う。ナーガセーナは答える。「では、あなたがここにくるまで乗ってきた車は何であるか。轅でも軸でも輪でも車体でもなく、それらの合体したものでもない。だがそれらの外に車があるわけでもない。では、あなたの乗ってきた車はないのか」「いや、そうではない」とミリンダ王は答える。「それら車の構成要素の存在する時に、車という名称が生まれるのだ」「しかり!」とナーガセーナは答える。「私の名もそのように構成要素が存在する時に名称が生まれるのである。だが、そこに人格的個体とは存在しない」これと同じように、文体もまた、文章の集合体によって「文体」という名称があるものの、文体という実体があるわけではない。文体は存在しない。より正しく言えば、文体とは無である。言いかえれば、それは作者の意識である。文体を検討するということは、すなわち作者の意識を検討することにもなる。私たちは存在を欲望しても、ついに存在論のサイクルから逃れることは出来ない。そうした存在は「消化」と同じように、自己と同一化するだけで、自己発展する契機を掴めない。だが、無を検討すると、私たちはそのような同一性から逃れることができる。欲望することが対象を否定し、形態において破壊することであるならば、無とは最初から何も構成されていないから、非我なる存在を欲望することとは全く別の契機が訪れる。文体を検討するとは、相手の意識を(ひとまず)承認することから始まる。というのも、承認しなければ、そもそも文章を読み進めることはできない。言い換えると、私の意識とは異なる意識を承認することである。文章を読み、文体を検討するとは、まず自らの意識の敗北を認めることである。
Twitter @ryoku28の発言より(2011年02月28日) ※一部表現を改変
「文体とは人間そのものである。」 ビュフォン
私が文体と読んだものとは、なぜここにこの言葉を置いて、このような文章を展開をさせるのかなどといった文章をまとめ上げる一つの力(puissance)の作用であった。その力自体は文章に働いているものであるのだが目に見えるものではなく、つまり可能態puissanceとしてしか現れないだろう。それゆえ、私は「文体は無である」と言った。
ときに、文体が文章の権力者(puissance)の謂いであるのならば、文章の権力者とは誰か? 今までの文章から、それはもちろん作者に帰されるべきもののように思われるが、ロラン・バルトの存在を知っている私たちは心から同意するにはいささかの戸惑いを覚えざるをえない。作者は死んだのだ、読者の誕生は作者の死によって償われなければならない、と。すなわち、私たちはどのようにして作者の「意図」を知ることができるのだろうかという問題に直面するのである。作品に「正しい」解釈など存在するのであろうか。そして、その「正しさ」を基礎づける権力者は存在するのか。
私は一つの解決方法を提案する。一つの存在の論証不可能性から創造者の死を宣言するのではなく、出来事の次元から見ること。もし私たちの目の前に作者が知らされぬままに一つの擬古文調の小説が現れるとしよう。大きく、昔の文章が発見されたか、現代人が擬古文調で書いただけかによって、例えば私はその文章を批評する際に、すなわち反省的に見た場合には意見が異なるだろう。だが、反省を伴わない場合には、作者が誰であるかは構わない。擬古文調の小説を読んで味わう快楽は等しいだろう。だが、その時にも、作品を読むのであれば、そこに一つの意図を見出さざるを得ない。おそらくそれがなければ作品は読むことも出来ないだろう。だが、それは(これはどのような作品でもそうだが──そしてそれが最後まで隠されている時、その最後の部分をオチと言う。サスペンスsuspense小説とは、この小説の中核にある意図の謎を宙づり状態にさせている小説のことである。……優れた小説は皆どこかしらサスペンス小説だと思う。──)宙づりの状態として顕れる。それを何かしらの環境世界で生まれ育ったがゆえの産物であると私たちは見なすのではなく、むしろ始めにおいては彼方からやって来るもの、予期しえないものとしてしか作品を見なし得ない。すなわち、存在の次元ではなく出来事の次元でしか作品は見ることができない。その時、作者の意図はどうでもよくて、そしてだからと言って作者が死んでいるわけでもなく、そこには非人称の形での「意識」が存在しているのである。
余談ながらサルトル『家の馬鹿息子』は前進的-遡行的方法で記述されている。すなわち、フローベールの書簡や伝記、時代状況などと言ったあらゆる痕跡を分析した後(遡行的方法)、そこで得られた素材を再構成して歴史=話(histoire)を作る(前進的方法)のである。それによって、いかにして「家の馬鹿息子」であるフローベールが傑作『ボヴァリー夫人』を書き得たかを論証する……はずの書物であったとしか言えないのは、サルトル健康上の理由で、全4巻で完結のはずが3巻半ばまでしか書かれなかったからである(と言い条、この試みは果たして成功する希のあるものであったかそもそも疑わしいが)。このサルトルの試みは、バディウの言葉で言えば存在と出来事の橋渡しをしようとする「徒労」とでも言いたくなるような作業である。(余談への余談ながら、今年中に『家の馬鹿息子』を読了したいものだ……)サルトルは、『家の馬鹿息子』への序文で次のように自分の企図を説明している。すなわち「今日、一個の人間について何を知りうるか」である。問いは、これであった。「文体は人間そのものである」とは冒頭でも引用したビュフォンの言葉だが、まさに『家の馬鹿息子』の最終部たる第四巻が文体研究に充てられるはずであったことは極めて示唆的であるように私には思われるのだが。──いずれにせよ、サルトルのフローベール研究は、あらゆる意味で、いささか滑稽なバベルの塔であったと私は思っている。
誰しも文章を書くのは状況の内においてであるし、また文章を書く前には、何かしらの文章に触れていなければならない。素材も道具も、またその一般的用法も、永遠なるものとして天上界に固定されている訳ではなく、今ここの状況の産物であり、そのような所与の存在を引き受けたうえでしか文章を書けないだろうし、またそのような観点を抜かした文体考察はやはり片手落ちだと言えよう。だが、サルトルのある種の失敗を繰り返さないためにどうすればよいのか、私にはまだ明確には見えていない。
(次回がもしあれば、アラン「散文論」とベルクソンのエラン・ヴィタルから文体を考えたいな…って。)